「前歯の秘密」

 少々出っ歯ぎみの私の前歯は、さし歯である。なぜさし歯になったかを人に伝える時、
また歯の付け根が黒ずんできて、歯医者に行こうかと考える時、いつも胸が痛む。
 小学6年の秋、だったろうか。かっちゃんという同級生の男の子はひょうきんで、
クラスの人気者だった。かっちゃんの家は母子家庭で古本屋を営んでいた。
私は漫画が山積みになっているその本屋に行くのが好きで、しょっちゅう行っては
売ったり、買ったりしていた。買うときはいつもおまけしてくれる優しいお母さんだった。
 そのかっちゃんと、ふざけて追いかけっこをしていたときのこと。あまりのしつこさに、
私はイスを持ち上げて威嚇した。そのイスをかっちゃんが蹴った。「あ」と声にした瞬間、
私の前歯は無残にも教室の床に落ちた。クラス中が異様に静まり返ったのを覚えている。
私は笑いたくなったが、泣かなければいけないような気がして、ウソ泣きをした。
涙はでなかったように記憶している。
 それから少し経って、私の家にかっちゃんとお母さんが謝罪にきた。家の父も母も
怒っていた。私は少しはにかみながら、ニヤっと笑ったような気がする。
前歯の治療費は保険が利かない。5万円のお金でも、細々と経営している古本屋には
痛かったのではないだろうか。かっちゃんの店はそれからまもなく閉店した。
今にも消えそうだった、か細い声のお母さんは、どんな風にかっちゃんを叱ったのだろうか。
 すぐに私たちは卒業し、引越しをしていたかっちゃんとはバラバラの中学へ入学した。
かっちゃんは不良になったと人伝えに聞いた。言えなかった「ごめんなさい」の言葉。
良心が痛む。
 イスを持った私が悪いとは、誰も言わなかった。